【解説】なぜ争うのか…カシミール地方をめぐるインドとパキスタンの対立の歴史

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核兵器を保有するインドとパキスタンは、互いに領有権を主張するカシミール地方をめぐり、2度の戦争に加え、限定的な武力衝突を繰り返している
なぜ両国はこの領土を争っているのか。その対立はどのように始まったのか。
紛争はいつから?
カシミール地方は、湖や草原、雪を頂く山々の美しさで知られる、民族的に多様なヒマラヤ地域だ。
インドとパキスタンが1947年8月にイギリスから独立を果たす以前から、この地域は激しく争われていた。
イギリス議会が可決したインド独立法による分割案のもと、イスラム教徒が多数を占めるカシミール地方は、インドまたはパキスタンのいずれかに帰属する自由が与えられていた。
この地域のマハラジャ(藩王)ハリ・シンは当初、カシミールの独立を望んでいた。しかし1947年10月、パキスタンに住む民族集団からの侵攻に対抗するため、インドに支援してもらう引き換えにインド帰属を選択した。
これをきっかけに第1次印パ戦争が勃発し、インドは国連に介入を要請した。国連は、カシミール地方がインドに加わるかパキスタンに加わるかを決定する住民投票の実施を勧告した。しかし、両国は住民投票の前提となる地域の非武装化について、合意に至らなかった。
1949年7月、両国は国連の勧告に従い、停戦ライン設定に関する協定に署名。これによってカシミール地方は分割された。その後、1965年に第2次印パ戦争が発生。さらに1999年には、インドがパキスタンの支援を受けた部隊と、短期間ながら激しく戦った。
この時点で、インドとパキスタンはどちらも核保有国とされていた。現在、両国は共にカシミール全域の領有権を主張しているが、実際に支配しているのはその一部にとどまっている。

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インド支配地域で紛争が絶えないのはなぜか
インドが実効支配するジャンム・カシミールでは、地域の帰属に関する意見が多様かつ、強く主張されている。多くの住民はインドによる統治を望んでおらず、2019年まで認められていた、準自治的な地位への復帰を求める声もある。また、一部では完全な独立を求める動きもある。
宗教も重要な要素となっている。ジャンム・カシミールでは、住民の60%以上がイスラム教徒で、インド国内で唯一、イスラム教徒が多数派を占める地域となっている。
1989年以降、この地域ではインド統治に対する武装反乱が相次ぎ、これまでに数万人の命が失われている。
インドは、パキスタンがカシミールの武装勢力を支援していると非難しているが、パキスタンはこれを否定している。
インド政府は2019年、治安維持を目的に大規模な取り締まりを慣行。その一環で、この地域の準自治的地位を剥奪した。
その後の数年間は、武装勢力の活動が下火となり、観光客の訪問が急増した。
前回の紛争以降の経緯は
カシミール地方ウリで2016年にインド兵19人が死亡した事件を受けて、インドは事実上の国境となっている「実効支配線(LoC)」を越え、「外科手術的攻撃」を実施。武装勢力の拠点とされる場所を標的とした。
2019年には、パラワマ爆破事件でインドの準軍事組織の戦闘員40人以上が死亡したため、インドはパキスタン領内のバラコートを空爆した。これは1971年以来初めてのパキスタン領内への攻撃で、報復攻撃と空中戦が続いた。
その後、数年間の比較的平穏な時期を経た2025年4月、インドが実効支配するジャンム・カシミールのリゾート地パハルガム近郊で観光客を狙った攻撃により26人が死亡し、再び緊張が高まった。この事件は、過去20年で最も多くの民間人が犠牲となった攻撃だった。
インドはその2週間後、パキスタンおよびパキスタンが実効支配するカシミールの標的に対してミサイル攻撃を実施し、再び緊張の激化と自制を求める声が高まった。
カシミールは、現在も世界で最も軍事化された地域の一つだ。
和平への道はあるのか

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インドとパキスタンは、2003年に停戦に合意した。
2014年にインドでナレンドラ・モディ首相が就任すると、パキスタンに対して強硬な姿勢を取ると公約したが、和平交渉への関心も示していた。
当時のパキスタン首相ナワズ・シャリフ氏は、モディ氏の就任式に出席するためデリーを訪れた。
しかしその1年後、インドはパンジャブ州北部のパタンコート空軍基地への攻撃について、パキスタンを拠点とする組織の関与を非難した。モディ首相はまた、2017年に予定されていたパキスタンの首都イスラマバードでの地域首脳会議への訪問を中止した。
それ以降、両国間の対話は進展していない。